いつともなくどこへともなく

2001年から続けている、生と死と言葉とのかかわりについて考えたことの備忘録です。

「自由」ということについて

2002/8/7(水)晴れ。
どこにまぎれてしまったのかと思っていたアレナスの『夜になる前に』が見つかったので、ふたたび読み始める。

ごく素朴に、「自由」ということについて考えさせられる。

警察国家キューバでは、作家であること、ホモセクシャルであることがすなわち、反逆を、投獄を、そして祖国で生き延びることの不可能性を意味する。文学を書き、原稿を隠し、ひそかに国外に持ち出すことがすなわち、自由に生きるということの具体的な実践なのだ。

キューバの作家たちは、手ですくい上げても出口をもとめてあふれ出ようとする水のように、監視の目をくぐって紙に書き、友人たちの前で詩を読み上げ、外国人の有志に原稿を託す。

それは同じもの書きとして、うらやむべき状況とは、とても言えまい。しかし、ある問いかけとなって響く−−「おまえはそれでも書き続けられるか?」と。

拷問を受け、仲間を売った者、あるいは拷問を恐れて、自ら命を絶った者−−彼らは、どれくらいの絶望と屈辱、失意にまみれたことだろう。掃き溜めに落ちた豚のように。またそれを潜り抜ける栄光の、限りない密やかさ……。

管理社会、警察国家……みすみす、そんなところに落ち込んではいけないのだと思う。それは、あまりにもナイーブな感懐に過ぎないのだろうか。

住基ネット、有事法案、個人情報保護法−−カッコ付きの「自由」に飼い殺されがちなわれわれもまた、自由の本来の意味を理解しようとする試みを止めてはならないのだ。