いつともなくどこへともなく

2001年から続けている、生と死と言葉とのかかわりについて考えたことの備忘録です。

アレナスを読みながら

2002/7/18(木)晴れ。
アレナスを読みながら

わたしの読書のしかたは、極端に浮気性である。飽きっぽいというか、気が多いというか、一時期に何冊も平行して読んでいるということが多い。そうしてそのうちの何冊かは結局、最後まで読まれず終いである。あるいは、途中で読まなくなった本をふたたび読み始めて、というように、何回もきれぎれに読みつづける場合もある。モーリス・ブランショのいわゆる「小説」は、この類かもしれない。『文学空間』、『明しえぬ共同体』など彼の評論は、「普通におもしろい本」として、一気に集中して読むことが多いが、小説のほうは、どうも一気に読みつづけられた試しがない。書き方が下手なんじゃないか、とすら思ってしまうが、それはきっと、こちらの根気が足りないだけなのだろう。それでもやはり、『謎の男トマ』や『死刑宣告』などといった物語は、また続きを(といっても物語の筋はそれほど興味の引かれるものではないが)読んでみたいと思わせるなにかがある。

いま、レイナルド・アレナス『夜になる前に』を読んでいる。かなりテンポよく、一気に読める本だ。<<ぼくは二歳だった。立っていた。前かがみになって、地面に舌を這わせた。僕が覚えている最初の味は土の味。同い年の従妹ドゥルセ・オフェリアといっしょに土を食べたものだった>>

軽快なテンポで語り出されるこの物語は、キューバの作家、アレナスの自伝である。極貧の幼年時代、同性愛への目覚め、カストロに熱狂したキューバ革命、作家としてのデビュー、投獄、脱獄、米国への亡命、エイズ、そして自殺、とまぁ、あわただしくもむちゃくちゃな人生ではある。無茶な独裁者にクシャクシャに踏みにじられそうになりながら、頑固なまでに屈服しまいとする個の、極端な戦いの記録である。読み進めながら、これはいったい、どこの星で起こったことなのだろう、と思わされるのだ。<<その汽車は新兵でいっぱいだった。みんな興奮しており、便所や座席の下、ところかまわずセックスをしていた。イラムは床で寝ているように見える新兵のペニスを足で刺激していた。ぼくは幸い両手を使うことができた。異常な旅行だった。サンティアゴ・デ・クーバではぼくたちは橋や陸橋の下で寝た>>

セックスするか、殴りあうか、拘束するか、撃ち殺されるか−−近づいた肉体、いや肉体ばかりでなく自然や壁、地面、便所、さらには死との間で、そんな「演算」だけが待っているような世界。

しかしまた、同じ風景を、どこかで見たような気がしてくるのは、やはり不思議だ。「からだ」というものが、本来の脆さのまま揺れている、そんな世界。わたしたちはきっと、そこから来たのだ。