いつともなくどこへともなく

2001年から続けている、生と死と言葉とのかかわりについて考えたことの備忘録です。

多様性なんていらない

2002/7/8(月)晴れ。
梅雨の中休みということか、一昨日から暑い日が続く。暑っくるしい。電車の中で、ひどく太った男の隣に座った。体重100kgはゆうにありそうだ。髪の毛は、まばらな感じで脱色したボサボサの長髪。手がムクムクしていて、だいたい不潔そうだ。汚い。漫然とした不快感を感じはじめるやいなや、この男は咳こみ始めた。湿っぽい咳である。席から立ち上がって窓の外を向いた。ひどい咳だ。ツバが今にも飛んできそうである。こっち向くなよこのデブ。むせ返りながらこの男は、窓を開け始めた。なにをする気だ。思わず私は、男の顔を見上げた。顔を赤らめて懸命に咳込んでいる。なんという愚鈍さだろう。ゲロを吐くつもりかと思った。こころなしか、半径5mほどの周囲の人々の間に緊迫が走った。私はあからさまに不快の色を顔に表していた。隣に座っていた家人は緊張した面持ちで私を見ている。

男は結局吐かなかった。当たり前の話だが。

あるいはまた、職場近くの行き付けの喫茶店の常連には、体中に直径3〜5ミリほどの赤い突起状の出来物のある女性がいる。年のころは30代後半くらい。いくぶん控えめに、だがほとんど休みなく顎の下あたりを掻いている。この店に入ってその女性が座っていると、「外れだ」と思う。彼女を見なくてすむ席を探す。

こんなことを言い出したらキリがないのだろう。しかし、だ。他人というものはどうしてこうも耐え難い存在なのだろうか。

テレビやら新聞やらで頭の悪そうな自称文化人が、「社会の多様性を失わせてはならない」なんて主張しているのを見るのも、実に不快だ。どうしてそうクソおもしろくもない意見をエラそうに公共の電波に乗せて平気でいられるもんだ。その神経がすでにウザい。多様性などときれいごとみたいなことばを使うせいで、こうした有害なものいいが垂れ流されてしまうのだ。

もちろん、自分自身が他人にとって耐え難い存在である可能性を無視するわけにはいかないんだろう。写真ではわかりづらいが、自分の映ったビデオを見ると、自分自身がどのくらいうっとおしい存在かが、なんとなくはわかる。

ただ、ひとつ言えるのは、「多様性から逃れることはできそうもない」という厳粛な事実である。まったく、クソおもしろくもない。が、それが世の中なのだ、ということなのだろう。たしかに、力強いことばというものがもしあるならそれは、他者からもたらされる不快感のせめぎ合いというやりきれない多様性のなかを生き伸びる、生命力によって生まれるのかもしれない。