いつともなくどこへともなく

2001年から続けている、生と死と言葉とのかかわりについて考えたことの備忘録です。

空と人 の巻


エコノミークラス症候群』という、いかにも現代的な名称の病気が原因で、サッカー日本代表、高原選手のW杯出場が危ぶまれているという。飛行中、脱水症状や血行の不順によって血栓が生じる病気とのことだが、他人ごとではないな、と思う。エコノミークラス症候群には、かかりやすい人間とかかりにくい人間がいるのではないかと想像する。わたしはおそらく前者だろう。



若い頃からスポーツをやりつけていて気が付いたことは、世の中には、脚が攣る人間と攣らない人間の2種類があるということだ。それはいわば、循環器系の体質のようなものではないかと思う。わたしはちなみに、つりやすいほうの人種だ。



わたしの実父は、糖尿病を原因とする脳血栓の発作で、現在まで3度倒れている。また30年近く前、祖父は脳溢血で亡くなったが、おそらく原因は糖尿病だろう。糖尿病の原因は、インシュリンをつくる膵(すい)臓の問題だろうが、これは一種の体質だ。糖尿病体質の人間の特徴としてよく挙げられるのが、すぐ喉が渇く、脂性、そして脚が攣りやすい、などだが、わたしはすべてに当てはまる。糖尿病体質が遺伝するという定説があるかどうかはわからないが、私見ではかなりの確率で遺伝するように思える。



いずれにせよ『エコノミークラス症候群』という病気は、「空」という環境の厳しさが、この種の血行の変化に敏感な人間たちを直撃した結果のような気がするのだ。わたしはこれまで、航空機で何度も長時間の移動をしたが、その手のトラブルに遭ったことはない。しかしそれはただ、体調が万全だったからに過ぎないような気がしている。航空機内の環境は、エコノミークラスの座席に長い時間同じ姿勢で座り続けることで血行が悪くなるというだけでなく(ちなみに高原選手はビジネスクラスに座っていた)、気圧の変化、重力の作用など、地上とはまったくことなる環境を、擬似的に地上の状態に近づけているにすぎない。いわば、焦土の中で孤立した俄かづくりのシェルターのようなものだ。あくまで、「危険な環境からわれわれを守るかもしれないもの」にすぎないのだ。



「飛翔」が、すなわち「死」に結びつく−−それは、飛んだがために死ななければならなかったイカルスからサン・テグジュペリに連なる、人類のトラウマなのだろうか。この「傷」に対してポール・クローデルは、「われわれに翼はないが、われわれはそれでも墜落するだけの力をもっている」と、なかば開きなって強がって見せたのだった。失墜の悪夢は、たとえ文明が現実の中で人を空へ、また宇宙へと連れ出したにしても、いやそれゆえにこそ、現実的な重みと身近さをもって、新たに迫りつつあるのかもしれない。もちろん、飛行機の墜落によって引き起こされた9・11の悪夢にしても同様だ。