いつともなくどこへともなく

2001年から続けている、生と死と言葉とのかかわりについて考えたことの備忘録です。

祈り の巻


情報誌のニュース欄担当者という仕事柄、夕方以降の主なニュース番組は大抵見ているが、さすがに毎日となると「世の中の動き」、というかその映像に、心底うんざりしてしまうことがある。いや、ほとんどつねにうんざりしている。慢性的な倦怠。一種の現代病だ。

とはいえ、面白い番組というものも確かにある。最近では、NHKの『にんげんドキュメント』がいい。タイトルがちょっとスゴいが、中身のほうはなかなか落ち着いたつくりで好感が持てる。先日は、競技かるた界の女王、渡辺令恵さんの回で泣かされた。プロが存在しえないかるたの世界で、会社員をしながらひたすら勝利を目指す「競技者」の姿を描くのだが、彼女の生き様はなるほど、鮮烈である。限られた生において人は、さまざまな営みを、あるいは必要にかられ、そこその熱心さをもってこなすわけだが、彼女の場合は、たったひとつである。そこに胸を打つなにかがある。

桜井哲夫という、らい患者の詩人の回は、見事だったと思う。内容についてくわしくは書かないが、彼の『おじぎ草』という詩をひとつ、引いてみよう。全文の引用は礼儀違反だが、一度きりということで勘弁願えればと思う。



 おじぎ草

   夏風を震わせて

   白樺の幹に鳴く蝉に

   おじぎ草がおじぎする


   包帯を巻いた指で

   おじぎ草に触れると

   おじぎ草がおじぎする


   指を奪った「らい」に

   指のない手を合わせ

   おじぎ草のようにおじぎした




夏風、白樺、蝉、おじぎ草という、清潔なポエジー。そして、無言の「祈り」がある。祈りの本質が、身体の姿勢であり運動であるということ。運動する身体は、どこからも切り離された一塊の肉であること。そしてこの切り離しこそが、魂を生むのだということを、この詩は教えているようだ。

昨日、20年以上前に亡くなった母の墓参りに行ってきた。たったひとり分の骨を収めた墓を、ひととおり掃除し、その前で、わたしも手を合わせることになった。無言の祈りではなかった。その意味で、祈りの本性からは逸れてしまっていたのかもしれない。すくなくとも、母なくして、今日のわたしはありえないし、また、母の死なくしても、今日のわたしはありえないのだ、ということをあらためて意識しないではいられなかった。これは不幸なことなのだろうか。