いつともなくどこへともなく

2001年から続けている、生と死と言葉とのかかわりについて考えたことの備忘録です。

鬱! の巻


最近、どうもイカン。ダメである。いや、根本的にダメなわけではないはずだが、社会人としての機能が鈍っているのは確かだ。純粋に、社会生活が苦痛である(ま、今にはじまったことじゃないが)。平気で10時間くらい寝る人間が、不眠状態である。なんでもないことがきっかけになって、気持ちが塞いでしまう。比喩ではなく胸が痛む。胃が痛む。これはもしや……「鬱」というものではないだろうか! そう考えて、ウェブで少々調べてみたところ、どうやらわたしの鬱は似非、もしくはごく軽いものであるらしい。軽いうちに直しとけ、という話もあるが。



気になるのは、医者にいったんかかったが最後、「お客さん」になってしまうのではないか、という危険性だ。これがラーメン屋だったらまぁ、「お客さん」になったとしても飽きるまで食い続ければいいだけのことである。しかし相手が医者となると話は別。気が済むまでクスリを飲んで、「精神。」を、クスリの副作用にさらすというのは、いかにもリスキーな感じである。ウェブ上で鬱病患者たちが揃って語るように、医者との信頼関係を築くのが最重要課題にもなろうというものだ。もちろん、手首を切ったり、具体的に自殺の段取りなどを考えるようになったら、病院に駆け込むしかないのかもしれないが。



鬱病、あるいはその他の精神疾患という医者の診断には、人の生き死に関わるような、権力といってもいいほどの強い力がある。裁判報道でも「責任能力」なるフシギなことばが、毎日のように読み上げられているではないか。芥川龍之介太宰治など、自殺した作家の書いたものを読むと、現代の医者ならほぼ疑いなく「鬱病」と診断するであろう心理描写が散見されるものだ。もちろんフィクションがどうだとか、そういうことは置いといた上での話。精神疾患に対して今日のような薬物治療がもし存在したなら、彼らが自殺する可能性はわずかでも下がっていたかもしれない。もし、などということを言っても仕方がないが。



鬱。それは本当に病なのだろうか。いや、病とはそもそもなんなのか。ほぼ疑いなく、いま、わたしは憂鬱である。ならばわたしは病人なのだろうか。「現代社会は病んでいる」などと言う場合、どのような社会の要素がどの基準に照らして病だというのか。ひどくあいまいな話ではある。鬱は苦い。しかし生きることそのものが、苦みを伴わないものとはとても思えない。苦みに気づかないのは、話にならない鈍感さや欺瞞以外ではありえないのではないか。いや、そういう感じ方そのものに「ビョーキ」の傾向がある、というのか。それならばいっそ、社会は思想統制を行なうべきである。



自殺といえば、最近では(といっても5年以上も前のことだが)、哲学者のジル・ドゥルーズが自殺した。批評家(?)のロラン・バルトは交通事故死ということになっているが、わたしの勝手な想像では、これも事実上の自殺ではなかったかと思う。パリに行き、Rue Saint-jacques(ソルボンヌの裏の通り)からRue des Ecolesを通りかかったとき、彼が死んだのはここだと直感した(超デタラメかもしれません)。すくなくとも彼は死ぬことを考えて、絶筆とも言える『明るい部屋』を書いている。実際には、実母の死によって写真の本質を「発見」する物語、というふうに、まぁ読もうと思えば読めるというような話が確か、あとがきに書いてあったような気がする。……って、際限なく話が広がってますが。



イカイカン。こういうのはイカン。



■今日のニュース見出し:

辞職が合理的な選択 大橋巨泉議員が抗議の辞職へ……わたしは一度だけ政治家に宛てて手紙(っていうか当世流にメールだったのだが)を書いたことがある。そのあて先が、この"O氏"だった。イシハラでもタナカでもなく。自分でもなんなんだろう、とは思う。11月30日の参議院本会議で、"テロ特措法"に基づく基本計画及び実施要項が与党3党及び民主党の大部分の賛成多数で可決されたのだったが、O氏は神本美恵子議員とともに、このときに反対票を投じたのだった。

 メールの内容をそのままここにコピペしてもいいのだが、少々長すぎるのでやめとこう。要旨は、反対票を投じた背景や理由を、オープンな場でぜひ説明して欲しい、というものだった。いったい、"同盟国"の軍事行動を支援する枠を広げることに、どんな問題があるのか。短い期間に民主党が「賛成」で固まったのはなぜか。それらは、いわゆる国民には自明のことではない。

「国民」ということばが空々しさを漂わせつつも、まだ、国はある。国は船のようなものだ。それがいずれ壊れる船であるにしても、また出来そこないの船でるにしても、いまこの船にしがみつかざるを得ないものにとっては、唯一の居場所なのである。

O氏の辞職はもちろん、残念なことである。政治の世界で、「王様は裸」だという率直な意見を言える(ほどに経済的かつ党派的に自由な?)政治家は、遺憾ながら少数派である。保・革に関わらず、貧乏臭く権力の傘の下に入らざるを得ない議員のほうが多数なのだ。途中で勝負を投げ出すのは卑怯だとも、お金持ちの気まぐれ(要するにアマチュア)だという見方も、もちろん可能だ。しかし真相はまだわからない。今後彼なりのやりかたで、それを明らかにしてもらいたいものだ。

"王様は裸"派の先駆者、中村敦夫はさっそく「辞職以外にも、信念をつらぬく選択肢はあったのに」と自分のサイトに書いている。しかし、"monjiro.org"っていうドメインもすげえな。……なんて言ってる間に真紀子が更迭されてテレビがそのネタばっかりになってしまった! 巨泉さん、食われましたな。コイズミほどの男だから、この程度のことはなんでもない、こともないが、可能だということ。やはり手ごわい。

全国規模の偽装発覚 雪印食品事件 ……これはまたスゴい。金儲け主義の論理が、そこで働く者の職業倫理を破壊している、あるいは職業倫理の崩壊を助長している典型的な例だ。これは雪印に限ったことではない。市場に出回っているいわゆる「製品」、特に口に入るものの安全性は、ひどく疑わしいということだ。ニセモノ、マガイモノを売りつける商売が、市場で大手を振ってまかり通っている。雪印事件もそうだが、一連の規制緩和の動きが、この流れに拍車をかけている。生き残るためにはものや企業を見る目を養えってことか。なんか、某ポスト構造主義者のご託宣みたいなことになっちゃうけど。

……