いつともなくどこへともなく

2001年から続けている、生と死と言葉とのかかわりについて考えたことの備忘録です。

書評

『ゴヂラ』 著者:高橋源一郎 出版:新潮社
ISBN:4104508012


“ゴヂラ”はあなたの予想どおり空っぽです

『ゴヂラ』は、壮大な(ってほど長くないけど)「思いつき」の堆積である。もちろんほとんど「詩」のような思いつきのおもしろさは、高橋源一郎ならではなんだけど。だいたい石神井公園という舞台設定自体、どーでもいい感じだ。「どうせ、“ゴヂラ”にも特に深い意味なんかないんだろーな、きっと」ということが、読者にもわかるように書いてある。ぶっちゃけて言うと、「コンビニ行った帰りに思いついたことばを無理やりつなげて長編として出版してるだけなんじゃないの?」という感じなのだ。なぜか。「思いつき」、というか「詩」を出版してもギャラが知れているからである。恐るべきことに、それ以外の理由とか深い意図とかを考えることはできない。味気ない話ではある。



雑誌に連載して原稿料をもらって、連載をまとめて本にして出版して印税をもらうというサイクルの仕事がないと、現代ニッポンのもの書きの生活は一気に苦しくなってしまう。「短編作家」や「詩人」、「エッセイスト」、「俳人」というような短文書きの職業は、他に仕事のある人の副業向きである。専業作家は長編を書かなければならない。それが経済原則というものなのだ。だとするならば、高橋によって『ゴヂラ』を捧げられている<<苦悩する詩人>>たちの「生活の苦労」、いや、「高価な無為」と呼ぶべき活動は、推して知るべしである。



<<だいたい、おれが関与しなくても「悪」はきちんと流通してるんだ>>



「ゲンイチロウ節」と言えなくもないこうしたことばはおそらく、「詩」そのものではないがそれに近いもの、と言えるだろう。そして『ゴヂラ』の中で明滅している「詩」は、一様にけだるい。コンビニの弁当を毎日毎食食べている気分をとっぷりと味わえる。



小説と詩の区別など、これまたどーでもいい問題ではあるが、散文と詩との区別はわりとはっきりしている。散文にはイイタイコト、つまりことばの行き先がそれとなくわかっているものだが、詩のことばには行き先がない。詩のことばは、「外」に向かって飛び立って行って戻ってこないものなのだ。口から飛び出し、言いっぱなしでそれっきり。詩が語るものはこの世にはない。詩の尊さというのも、そういう性質と無縁ではない。



現代ニッポンのコンビニ用語的「詩」がつながって無理やり長編の形になっているこの小説の「中身」はといえば、長い小説を書かなければまとまったギャラが入らないという商売の都合以外、空っぽである。そして問題なのは、この空っぽの部分である。とりあえず高橋はそれに「ゴヂラ」と名づけた。別の小説ではそれを少し楽観的に「野球」と名づけたし、もっとはっきり言うとすればそれは、「文学」だということになるだろう。



「文学」というこの空っぽの部分。それは、ずっこけた資本主義社会に生まれたもの書きたちの、単なる生業なのか。身過ぎ世過ぎの果てにひり出る、オナラのようなものなのか。なぜ人はこの空白に苦しむのか。なぜ人はこの空白に悩み、狂気へと駆り立てられるのか。空白に意味付けしたいという我執にほかならないのか。TSUTAYAの帰りにローソンで弁当を買いながら「詩」をつくる自らの生に、意義を持たせたいだけなのか? その答えは、当然この『ゴヂラ』でも明らかにはされない。得られるのは、<<そんなこと、知るかよ!>>という答えのみである。文学の営為を「空白」と呼ぶ、高橋源一郎の時代錯誤とも呼べる「文士的勇気」あふれる冒険を味わう、とりあえずの自由が読者に残されているだけだ。