いつともなくどこへともなく

2001年から続けている、生と死と言葉とのかかわりについて考えたことの備忘録です。

マリーシアのおもしろさ の巻


会社の女子2名に挟まれて「覇気がない」「ほっぺたがたるんできた」「太ったでしょ?」「最近、おじちゃんって感じだよね」「油っけが少ない」と、さんざん責められた。ああそうだよ覇気がねえよ俺には。はぁ。



無力感はある日突然、どこからかやってくる、ってのは本当か? そんなことはないよな。来るべくして来るんだろう。職業倫理の崩壊みたいなものと関係があるのではないかと、わたしはにらんでいる。「仕事なんか、必死こいてやらなくてもなんとかなる」とか「なんで俺がこんなことやんなきゃいけないんだろうなぁ」とか言ってテキトーに働いているうちに、自分自身が蝕まれているのだ。いったい何に? 答えは「欲求不満」。



自分が自由であるという自覚(錯覚?)は、思いのほか生理に影響するようだ。自分の意志で自分の身の置き所が決められるという自覚は、生理を解放するのだ。そして解放された生理は「欲しいものすべて」を求めるようになる。そしてそれが満たされることはない。逆に言うと、不自由さこそわれわれを助けているということかもしれない。



社会学者のピエール・ブルデューが死んだ。ちゃんと読んでいないので、気の利いたことは何も書けないのが悲しい。知識人の社会参加の必要を説いてエミール・ゾラを評価し、グローバリゼーションに異を唱える姿勢に共感を抱いていたのだが。不勉強の報いである。故人のご冥福をお祈りします。



『日刊ブラジルサッカー』1/25号の編集後記に、“マリーシア”を紹介するおもしろいエピソードが載っていた(なんかメールマガジンの話題ばかりでスンマセン)。マリーシアというのは「悪知恵」などとも訳されるが、サッカーなどのゲームで勝つためのブラジル流の「大人の知恵」のようなものだ。わたしがブラジルにフットサルを習いに行ったときにも、「審判に見えないように相手のシャツを引っ張る方法」や「背後から近づく相手は、お尻で突き飛ばして間合いを作る」等といった悪知恵を教わったものだ。上記の編集後記、少し長くなるが引用してみよう。



<<リベルタドーレス決勝のパウメイラスとデポルチーボ・カリ戦。合計得点で1点及ばず、このままでは優勝を逃してしまうパウメイラスが怒濤のごとくカリゴールに攻め込み、ここでゴールか?と言う瞬間にグラウンドの外で練習をしていたカリの選手が蹴ったボールがグラウンド内に… コロンビアのマリーシアが現れた瞬間でしたが、そこは上手(?)のブラジル、審判はグラウンドに二つのボールがあるにも関わらずに試合を続行し、パウメイラスが同点のゴール!>>



本当に、狩猟民族由来のスポーツで狩猟民族と張り合おうというのがそもそも間違いなのでは? と考えさせられる話だ。興味のある方はサンパウロ新聞の記事“日本は世界を相手に勝てない・日伯サッカー比較文化私論16・応援団にもマリーシア ”も一読を勧める。“ドーハの悲劇”(1996年のワールドカップ最終予選、対イラン戦のロスタイムで失点して日本が出場権を逃した“事件”)は、観客にマリーシアが備わっていれば難なく回避できた、実は悲劇でもなんでもない、という内容だ。ほんと、おっしゃるとおりかも。



■今日のニュース見出し:

イスラエルの士官50人、パレスチナ地区での軍務拒否の手紙……内容は「我々はパレスチナ人全体に対する圧迫、追放、破壊、封鎖、暗殺、侮辱行為などを遂行するために西岸とガザでの戦闘にかかわることをやめる」とのこと。彼らの勇気もさることながら、実情はよほど酷いんだろう。

4年前の夏、仕事でイスラエルを訪れたことがある。レストランで知り合った気さくな家族、兵役中の若い娘さんたち、口数が多くて豪快な経済大使殿、商工会議所の音楽好きで物静かな紳士……決して悪魔の住む国ではないはずなのである。もちろん、「血」を忘れて、安易に「平和」などということはできない。ただ、なんらかの希望はもちうるはずなのだ。「戦争」で亡くなられたすべての人々のご冥福と、かの地に平安が訪れることを祈ります。