いつともなくどこへともなく

2001年から続けている、生と死と言葉とのかかわりについて考えたことの備忘録です。

禅林寺まで

■2002/1/14(月)晴れ■

近所の禅林寺まで散歩。ここには、鴎外森林太郎太宰治の墓がある。高校生の頃、門の前まで来て、寺があまりに立派なのでたじろいでそのまま引き返してしまったことがあった。名所めぐりはもともと億劫に感じるほうだが、この手の“文学名所めぐりはキライではない。




軍人としてではなく私人として葬ってくれ、みたいなことを述べた、鴎外の有名な遺書が彫られた石碑。そして、シャッターがついて妙に物々しい墓地の入り口の半地下の門。30m四方といったところだろうか。小広い墓地である。ところどころに桜やら椿(?)、隅には百日紅の古木、そして藤棚。すべて、ひと言で言えば、立派である。あてどなく歩き始めて、鴎外の墓が難なく見つかった。親戚の墓数個が並び、植木も植えられた堂々たる墓である。そしてその斜向かいには、太宰の墓。太宰の実家の名、「津島家」と書かれた墓と二つ並んで立っている。ここで、田中英光は腹を切って死んだんだよ、と傍らに居た同居人に伝えるとギョッとしていた。



太宰治は、やはりわたしにとって、特別な作家だ。以前もそうだったし、今でもやはりそうである。墓石には、特徴のある書体で「太宰治」と記されていた。三鷹市のサイトによるとこの書体は、本人の署名から取られたとのことだ。軍人ではなく私人として葬られた鴎外の墓の向かいに、戸籍名でなく筆名の彫られた太宰の墓。所属から離れること、そして戸籍から離れること。両方の墓石の前で手を合わせた。一瞬ためらったが、「うまく書けますように」と祈った。



双方とも、本来なら線香が立てられるべき場所(なんていうんだろ?)に、煙草の吸殻が散見されたのには少々驚いた。わたしも、鴎外の墓に一本の煙草を立ててみた。無礼な話ともいえるが、文人の扱いとしては相応なのかもしれない。自分の墓も、できればこの敷地に立ててもらいたいものだと、照れずに思う(仏教徒でなければ無理なのだろうか?)。とはいえ、こういう種類の自負心がもはや、意味をなさない時代となりつつあるのは確かだ。<<天使も、竜も、もはやそこ(文学)を守ってはいない>>(ロラン・バルト『文学の記号学』)



文学の伝統やら権威やらというものは、あえて壊さずともおのずと崩壊しつつあるのは目に見えている。しかしそれでも、と思う。伝統や権威から離れたところに、文学という名の共同体があるのだと。「村」といってしまえばそれまでだが。この村の住人達は、みな一様に遠いところを見ている。そういう村なのである。わたしはその村を破壊しようと試みるべきなのだろうが、そうすることによって、村の住人たることを志願することに変わりはないのだ。



■今日のニュース見出し:

「共に歩み、共に進む」首相が東南アジア向けに政策演説……これに「共に栄え」を付け足せば、中国からお決まりのクレームが入るところだが。

チャールズ皇太子の次男ハリー王子、麻薬使用認める……やはりイギリスは進んでいるな。

武装指導者爆死、自治政府イスラエルの暗殺」と非難……またもや泥仕合イスラエルに歯止めをかけるのはイスラエルしかない、ということか。