いつともなくどこへともなく

2001年から続けている、生と死と言葉とのかかわりについて考えたことの備忘録です。

暴力

■2001/12/29(土)曇り■

今日は江東区の草サッカーチームの年末フットサル会……のはずだった。しかし31日までに仕上げなけらばならない原稿があったため、同居人に電話を借りて(わたしは現在、携帯電話を使っていない)、代表のKさんに連絡を入れると、今日は誰も来られない、という。一人も? コートを予約したのはわたしだった。都内一等地のこのコートの使用料は1時間1万2千円で計2万4千円也。ははぁ。「ちゃんとしてくれなきゃ困るよ!」などといまさら言える柄ではないが……参った!

終日パソコンに向かうが、思うようには進まない。間に合うのかなという感じだが、書くのはやはり楽しいと、ふと思う。

“ニュース見出し”を引いていて思うのは、「暴力に与せず、暴力に屈しない」で生きる方法こそが、現時点で探し求めなければならない最たるものだということだ。個人、というか、わたしは、生き方の出発点をもう一度そこに置き直してみるべきなのだ。もちろん、すでに「手は汚れている」。暴力の恩恵を受けている。だからといって、そのままでいいことにはならない。

この世の生が限られているという事実は、救いでもある。個的な生の永遠の安泰を守る必要はないのだ。おかしいことはおかしいと言おう。納得できないことを無理に飲み込む必要はない−−それが、これからやってくる次の年を生きるかもしれない自分に向けたことばとしよう。