いつともなくどこへともなく

2001年から続けている、生と死と言葉とのかかわりについて考えたことの備忘録です。

後ろ向きに「外部」に向かって

■2001/12/28(金)晴れ■

江古田にてAと会う。何ヶ月ぶりだろう。肌の色艶がよく、体調はよさそうだ。なぜか香山リカという医者兼もの書きの悪口を言い合う。それからまた、どちらともなく、芸術(?)の社会貢献という話になる。結局のところそれだ、ということで一致。

とはいえ、音楽も、文学も、それ自体の社会とのかかわりはどちらかというと一方的なものだ。事実上、社会が整えた条件のもとでしか芸術はありえない。社会から剰余物のようにして生み出された芸術は、社会のほうを向きながら後ろ向きに「外部」に向かって歩くものなのかもしれない。

カルビーノは、「文学の機能は、ことばの新鮮さを保ち、コミュニケーションを生きたものにするための一助となすこと」というようなことを言っていた。「これはアメリカの自由に対する挑戦だ」みたいな、広告のキャッチコピーまがいの陳腐なことばを投げあっているうちに、コミュニケーションの能力を失いつつあるのが、われわれの時代の傷である。

文学の「素材」は、同時代の言葉に求めるより他にない。貧しいことばが支配する時代ならば、貧しいことばによるほかない。だからこそ、エクリチュールなどと呼び慣らされている「ことばづかいの戦略」が遡上に上がるのだ。ならば、その戦略を形作ることばは、どんなことばであるべきなのか・・・。

やはり何ヶ月かぶりに猫に会わせてもらう。1年半前に、わたしが目白通りで拾った猫だ。拾ったころは骨と皮と尻尾だけのいきものだったが、いまや大きな成猫になっていた。拾った時から見えていなかった片目。この猫は、なんといったらいいのか、猫にあるまじき寛容さをもっている。「すぐそばにある、ありえないような野生のやさしさ」とでも言いたくなるような、特質である。この顔を見ると、「愛」ということについて考えさせられる。愛は、魂と魂との間の哀しい引力なのだ、と思い、いや……、とも思う。

さらに江古田のM氏宅で忘年会。名前は忘れたが、奄美大島の焼酎をいただく。うまい。ひどくうまいので少々飲みすぎた。そんな場合でもないのだが。仕事で奄美大島に毎月訪れるというM氏は、(真紀子キラー?)ムネオ・スズキとミスター・フジモリの密会現場を目撃したという。確かに密会には最適な場所なのだろう。

奄美大島といえば、島尾敏雄というか、島尾ミホ。最近では、池澤夏樹ソクーロフ。かの地には、なにがあるのだろうか。

■今日のニュース見出し:

ソニーニフティを買収か 日経が交渉中と報道……以前からその筋では公然と囁かれていた話。さもスクープのように報じるには遅すぎるし、正確を期するならば早すぎということ。日経は、いつもこの手の勇み足を踏んでいる。会員は多いが今後の展望のないニフティと、戦略だけはあるso-netがくっつくのはある意味自然のなりゆきか。インフラを某元通信公社から借り受けて回線サービスのみを消費者に提供するというISPの商売が、最初から難しいことはわかっていたわけだ。いずれにしても、ソニー(というかソニーCE)の「反米、反PC、反インターネット」路線とどう折り合いをつけるのか、など、やじうま的にはまぁまぁおもしろい話。