いつともなくどこへともなく

2001年から続けている、生と死と言葉とのかかわりについて考えたことの備忘録です。

幡ヶ谷ニイハオの餃子

■2001/12/27(木)晴れ■

明け方、徹夜のあとの帰り途。寒い。異様に寒いぞ。まともな防寒具も着ていないせいか。衣食住にも事欠く始末だ、まったく。

いわゆる仕事おさめ。20時ごろ、急遽、ニュース班の忘年会が始まる。幡ヶ谷ニイハオ(渋谷区西原2-27-4 2F TEL/03-3465-0747 17:00〜24:00 日曜休み)にて。水、焼、揚餃子で、けっこう知られた店のようだ。わたしは2回目。餃子のほか、蜆を老酒でつけたもの、腸詰、牡蛎のオムレツのようなもの、など、たしかになかなか旨い。餃子の味は、リンクを参照していただければと思うが、特徴は鮮度だ。わたしはサイトを見て初めて知ったが、注文を受けてから皮の生地をちぎり、こねてから伸ばしはじめるらしい。餃子を皮から手作りしたことのある人は心当たりがあるだろうが、包んでからしばらくすると、餡から水が出て、皮の食感や耐久性にダメージが与えられてしまうものだ。

「鉄は熱いうちに打て。餃子は包んだらすぐに焼け」

ここの餃子は、餡の肉も、ごくおおまかに手(というか包丁)で挽いたものらしい。やはりこのほうが肉汁の保持力も高まり、繊維も保存される。もちろん、使っている肉の味が問われることにもなるわけだが。

忘年会の終盤では、「これで最後かも」という声がどこからともなく漏れてくる。諸行無常の響き。なるようになるさ。