いつともなくどこへともなく

2001年から続けている、生と死と言葉とのかかわりについて考えたことの備忘録です。

八王子で雪が降ったら三鷹は霙(みぞれ)、中野は雨

■2001/12/26(水)晴れ■

家賃を払いに行って大家さんと世間話。80歳をとおに超えているはずだが、ひどくしゃきっとしたおばあさんである。ときどき、このおばあさんがたどたどしくピアノを鳴らしているのが聞こえてくる。

「八王子で雪が降ったら三鷹は霙(みぞれ)、中野は雨」

だって。大気は変化する、ということか。

仕事をさぼってドゥルーズのFemis(フランスの国立映画学校)での講義録のさわりを読む。内容についてはまた後日。

金銭について、とりとめもない夢想をする。「貧しさ」の叙情性から、「赤字」の喜劇に、いつのまにか人間は移行してきてしまった……絶望の裏側というものがあり、この裏側には新たな叙情の萌芽がある、ということ。たとえば、不景気の閉塞感の裏側には、地域貨幣の、SF的に明るいポエジーの可能性がある……などなど。

■今日のニュース見出し:

印パ緊張高まる インドがさらなる外交措置も検討

山形浩生氏に賠償命じる 小谷真理氏に関する記載めぐり……やっちゃった、って感じか。この人は、場合によって不可解なまでに「いらないひとこと」を付け加えることがある。……とはいえ、やはり山形浩生は、おもしろい。

●自分で翻訳した『伽藍とバザール』(Linuxで実践されたソフトウェア開発スタイルについて論じたエリック・スティーブン・レイモンドの作品)などを、まるまるウェブで公開したり、

●いやそれだけでなく、翻訳資料をどんどんウェブで公開する、青空文庫の翻訳版ともいえる『プロジェクト杉田玄白』をはじめたり、

浅田彰の『構造と力』で、(表紙にも刷ってあった)“クラインの壷”の比喩を持ち出すのはおかしいんじゃないの? と言い出してみたり(この批判自体にはわたしも激しく同意した)

といった具合に、とにかく異様に密度の濃い仕事振り、“知識人”批判の急先鋒っぽい論客ぶりで、否応なく目立つ存在になりつつある人物。自信満々の論理性、その論理に裏打ちされながら“翻訳ことば”を平易にし、わけのわからない象牙の塔的ことばを粉砕しようとする向こうっ気の強さ、常にひとこと多い感じの執拗に挑発的な態度をとる感情バランスの危うさみたいなものが、(決して悪い意味ではなく)“東大っぽさ”を体現している気がする。ビョーキっぽさ、といってもいいと思う。ビョーキは、やっぱりカッコイイはずだから。彼の書いた“小説”というのを読んでみたい気がする。まぁ、書かないだろうね。

ことばと権力に関心をもつものにとって、彼の“バザール風”なサイトは必見だろう。

マレーネ・ディートリヒは「自殺」だった?……ドイツでの埋葬すら論議の種になったらしいが、戦時の亡命を責められるやつなんているのか?