いつともなくどこへともなく

2001年から続けている、生と死と言葉とのかかわりについて考えたことの備忘録です。

『奉教人の死』

■2001/12/24(月)晴れ■

芥川龍之介の『奉教人の死』を読んでいたら、この奉教人はクリスマスの夜、寺院の前で拾われた、とあって、考えてみればなるほど自然な設定だとはいえ、小さな驚きを感じた。<<去んぬる頃、日本長崎の「さんた・るちあ」と申す「えけれしあ」(寺院)に、「ろおれんぞ」と申すこの国の少年がござった。これは或年御降誕の祭の夜、その「えけれしあ」の戸口に、餓え疲れてうち伏しておったを、参詣の奉教人衆が介抱し、それより伴天連の憐れみにて、寺中に養われる事となったげでござるが、何故かその身の素性を問えば、故郷は「はらいそ」(天国)父の名は「でうす」(天主)などと、何時も事もなげな笑に紛らいて、とんとまことは明かした事もござない>>

芥川のいわゆる“切支丹物”、かなりわざとらしい感じの擬古文で、ほほえましくもある。実際この『奉教人』などは、ややこしい文体を一種の「口実」にして、ほとんどお涙頂戴の講談かと見紛うばかりの畳み掛ける調子で、一気に読ませる。やはりうまい。「歴史」を隠れ蓑にして己の法悦を語るやりかたは、よく言われるように「メリメっぽい」と、どうしても思ってしまう。

それにしても、「ろおれんぞ」といい「さんた・るちあ」といい「れげんだ・あうれあ」といい、このひらがな表記されたラテン語の快楽がすなわち、切支丹物のよさと言ったらいいすぎだろうか。

文学が法悦=エクスタシーをもたらす可能性について、芥川は比較的に楽観していたように思う。というか、実際に彼がそう考えていたかどうかはともかく、文学のエクスタシーを顕揚する態度を、語りの、いくぶん性急なエンジンにしていたようなところがある。それだからこそ、「営々たる日々の暮らし」の価値はどうしても低く設定されざるを得なかったのだ。<<なべて人の世の尊さは、何者にも換え難い、刹那の感動に極まるものじゃ>><<……されば「ろおれんぞ」が最期を知るものは、「ろおれんぞ」の一生を知るものではござるまいか>>

もちろん、そう単純に言い切れるものでもないだろう、と誰もが思う。「しかしそれは本当に本当なのか?」−−せっかちな芥川の、疑問符であり祈りでもあるところの「刹那の感動」は、いまだに文学の、あいも変らぬひとつの顔を、あっけらかんと示してしまっているらしい。

■今日のニュース見出し:

不審船からロケット砲……しかし、ロケット砲とは! たかが麻薬取り引き(まだわかんないけどね)、されど麻薬取り引き。金というものは、「表」に流れたのと同じだけ「裏」にも流れるものと知るべしということか。

映画「グラン・ブルー」モデル、マイヨール氏自殺

天皇陛下の「韓国とゆかり」発言、韓国各紙が1面掲載

アルゼンチン暫定大統領、対外債務の返済中断を宣言

中国、武力行使に懸念示す 不審船事件……「遺憾」か「関心」かで迷ったすえ、「関心」がコメントに選ばれたようだ。

異例の起用、総務審議官に月尾東大大学院教授……「インターネットの本質は、『エシュロン』(全世界的諜報活動)が狙いであったということだ」「ARPA NET=インターネットの開放は巧妙な戦略」と喝破した人物が総務省に。事務次官レベルの同ポストへの学者の登用は、異例とのこと。まぁ、元郵政省の電通審の政策部会委員らしいので、格段ウルトラCというわけでもないのだろうが。。コイズミ氏は、月尾教授の守備範囲をよく理解していないのではないかと推測する。知っていたら対米的にマイナスだと判断するに違いないから。