いつともなくどこへともなく

2001年から続けている、生と死と言葉とのかかわりについて考えたことの備忘録です。

ブログがジャーナリズムを変える 湯川鶴章 著

ISBN:4757101945

中身や著者である鶴川氏については紹介の必要はないかもしれない。
ひとことで言うと、なかなかいい本だった。
正しい読み方ではないかもしれないが、本書を読んで「この著者は間違いなく善人だ」と思った。
善人という表現では言葉足らずだろう。
日、一日を、「子供たちに少しでもいい世の中を残すため」に捧げている人間が、確実に存在するのだ、という実感に、胸を打たれたのだ。ジャーナリズムそのものが正義足りうるか云々という議論は、そこでは雲散霧消している。
鶴川氏がそういう存在なのはもちろん、彼の出会った人々のうちのいくらかが、そういう、名もない善人たちだという、ある意味おそろしい事実が横たわっている気がした。

俗に性善説性悪説などというが、そういう俗説が少なくとも「粗雑にすぎる」のだということが、いまではわかる。もともと人間がいい存在か悪い存在かが問題なのではなく、「世の中には『自らを愛するがごとく隣人を愛する』人間が、確実に存在する」ことの重み。それは、世界の存続が、このような「善意の存在」にこれまでも賭けられてきたし、これからもそうなのだ、ということだ。

過去において、人間は多くの悲劇と愚行に晒されてきた。それでも、いくばくかの人々の意志によって、「善」は生き長らえてきたのだ。

ブログ、というか、本書で語られる「参加型ジャーナリズム」は、「善意の存在」、「善への意志」を知らしめるしくみとして大きな意味をもつ、と言えばいいすぎだろうか。問題なのはジャーナリズムの本質や意義ではない。「善に身を捧げる」ことの重みなのだ。

多くのテロリストたちが、彼らにとっての「善」のために命を捧げ、殺戮という悪をなしている現実は、じゃあ、どうなるのだ? これは馬鹿げているようでいて本質的な難問であるように思う。彼らにはなにが欠けているのか? 欧米の民主主義国で教えられている「人権」、「ヒューマニティ」の意識の欠如だろうか・・・・それは簡単ではない宿題だ。