いつともなくどこへともなく

2001年から続けている、生と死と言葉とのかかわりについて考えたことの備忘録です。

■スーパーフラットってコトバを知らなかった・・・

どこを経由したかは判然としないが、気がつくと浅田彰氏の『スーパーフラットアイロニーhttp://www.kojinkaratani.com/criticalspace/old/special/asada/techo11.htmlというエッセイを読んでいた。

 かねてから日本の伝統美術の平面性と現代のアニメなどの平面性をつなげて「スーパーフラット」というコンセプトのもとに世界に売り出そうとしてきた村上隆が、そのコンセプトに基づいたグループ展*[1]を企画し、コンセプト・ブック*[2]を出版した。

新潮社刊『波』2000年6月号とあるから、もう4年近く前の発言ということになる。わたしはこの、村上隆氏が提唱していたとされる「スーパーフラット」というコトバを知らなかった。その概念はなんとなく、よくわかる。まさに、村上氏の作品をいい表したようなコトバだと思う。しかし、「スーパーフラット」というコトバを、字面としてまったく初見だったことがある意味スゴい。ポスターとかサイトとかにも書いてあったのかもしれないが、それでも見過ごしていたのだろう。よかった、誰にも言わずに自分で気づいてて! まだまだ日本も広いのだ(そういう問題か?)。

googleで「村上隆 スーパーフラット」を検索すると、実に1,730件も見つかる。これには驚く。わたしが村上隆氏自体を知らないとすれば話はわかるが、そうではない。わたしは実際に彼の作品を観にいって(たとえ酔っ払った状態で、やじうま的にいい加減な態度だったとしても)、「なかなかいいんじゃないの」くらいのことを口走っていたはずなのだから、始末が悪い。わたしの目は節穴ですね。

で、「スーパーフラット」である。わたしは、村上作品(Wムラカミではありません)に感じたその戦略性の正しさと美術作家としての素養の高さにとても関心しながら、どうしても腑に落ちないというか、要するに「好きになれない」というか「ムカムカさせられる」なにかを感じたのだった。その理由がとても知りたかった。逆に言うと、村上隆の作品は、「鑑賞者がこの絵をみてムカつく理由を深く考えさせる」という点が優れているのだ。

村上隆が企画した『スーパーフラット展』に出品していた(らしい・・・というか、わたしはいま、完全に4年前の現実に浦島太郎としてタイムスリップしているのだが)佐内正史の、少なくとも初期の作品にも、これと似た感覚を呼び起こされるなにかがあった。それは一言で言うと、「中心、主題がない」ということだ。
http://www.1101.com/sanai/sanai-04.html
上の作品は、自動車の車体後部の「(TOYO)TA MARKⅡ」という文字とテールランプの一部が写っている。目に付くのはこの文字と白い車体、テールランプの赤や黄色の色、くらいだ。そしてもちろん、「(TOYO)TA MARKⅡ」にもありきたりなテールランプにも、なんの意味もない。もちろん「美。」もないことは誰にでもわかる。いや、意味がないというだけでは足りない。鑑賞者が目にするのは、"商標"という非-意味化する機能や、トヨタの乗用車にまつわる、どーでもいいコノテーションの数々だ。いずれにせようんざりさせられるなにか、それこそ、「犬のウンコ以下」のなにかだ。だから、見る者は、この写真の中のなにも見ないとも言えるし、写真全体の各部分を均等に見る、とも言える。瞳孔が、写真と同じサイズに拡大されてしまう、ということかもしれない(ちなみに瞳孔が開くとは死ぬということだ)。

ラカンデリダ(っていう足し算はないよな・・・)を敷衍して「スーパーフラット」を手短に解説した
東浩紀存在論的、広告的、スーパフラット的』http://www.hirokiazuma.com/texts/superflat.htmlは、正直いうと理解に苦しんだ。わたしが、すくなくともラカンを理解していないせいだろう。そしてさすがに、

けれど僕は、オタク的な感性、スーパーフラット的な感性というのはもっと普遍的なもので、新しい思想や芸術運動に繋がるポテンシャルを秘めたものだと思う  (『存在論的、広告的、スーパフラット的』)


というマニフェストには辟易とさせられる(まぁ、これはいいや)。

ただ、彼(村上隆 引用者注)が「日本は世界の未来かもしれない。そして、日本のいまは super flat。」と宣言するとき、そこにはもはやシャープなアイロニーは感じられない。それは、いわば「スーパーフラット」なアイロニー――つまりはナイーヴな自己肯定に基づく、「J-POP」とほぼ同レヴェルでの「Jアート」の自己主張なのだと言えば、意地悪に過ぎるだろうか  (『スーパーフラットアイロニー』)


おそらく、これが浅田氏の、というか、至極ノーマルな村上隆、およびスーパーフラット的な表現への評価なのだろうと思う。
ならば、どうすればいいのか−−

こりもせず(いい加減疲れてきたが・・)検索していると、すばらしい思考に出会えた。dakie氏の『犬のウンコ以下、クズ小説、ゴミ批評』http://d.hatena.ne.jp/dakie/20031116だ。
「すべては「犬のウンコ以下」化する」ということ。例外は、ない。そして、dakie氏がのちにコメントをつけている。
http://d.hatena.ne.jp/dakie/20031120

先の浅田彰風にいえば、「去勢」による成熟を強要することはできないが、かといって「スーパーフラット」という幼児化した現実に居直ることもできない、我々はこのカント的なアンチノミーを徹底して考え続けるしかない、ということです。あの日記で言及したスガ秀美も引用部分のつづきで『現代文学に欠けているものは、「持久戦」の概念であると思われる』と述べています。


「持久戦」とは、いいコトバを引っ張ってきてくれたものだ、と思う。しかししかし、あくまで持久戦であり、早合点は禁物だ。たとえばわたしはいまきっと、「2000年」という日付から離れて、中上健次阿部和重の関係、それから中原昌也というような、意味ありげではあるが、その実どーでもいい「気がかり」にまた、帰ってきてしまっただけなのだから。